今年になって、フランス政府が初めて公開した、UFOに関する機密ファイルらしい。私はフランス語が読めないので、内容に関しては何も言えない。日本語訳があれば是非読んでみたいのだが。でも何の目的でフランス政府は、このような、今までどこの国も公開してこなかった文書を、今になって公開したのだろうか。謎を考えることは楽しい。これだけ世界中で、取りざたされるからには何かがあるのであろう。世界には、いまだ語りえぬものがまだまだたくさんある。夢想は尽きない。
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今年になって、フランス政府が初めて公開した、UFOに関する機密ファイルらしい。私はフランス語が読めないので、内容に関しては何も言えない。日本語訳があれば是非読んでみたいのだが。でも何の目的でフランス政府は、このような、今までどこの国も公開してこなかった文書を、今になって公開したのだろうか。謎を考えることは楽しい。これだけ世界中で、取りざたされるからには何かがあるのであろう。世界には、いまだ語りえぬものがまだまだたくさんある。夢想は尽きない。
このキノコが病気に効くのかは、私にはよくわからない。でも、幻のキノコといわれ、熊などの野生動物が大昔から、その自然治癒力をかぎつけて食べてきたといわれる。何故、幻のキノコといわれるのか。標高1000メートル以上の高山に、夏に生え秋にはもう姿を消すそうである。だから人の目にはなかなか触れにくい、しかも野生動物がその味と力を知っていて、人が見つける前に食べてしまうのではないかとも言われる。ハナビラタケは、他のキノコが嫌がって近寄らない、カラマツなどの強い松ヤニをものともせず、その木の栄養を食べて育つ、針葉樹に特異的につくキノコであるらしい。針葉樹は広葉樹より古い時代からあり、ハナビラタケは二億二千年前~六千五百万年前から存在する、太古のキノコの一つだと考えられている。そしてなんといっても魅力的なのが、食べるとめちゃくちゃ美味いらしい。
良薬口に苦しなどと言われるが、これは体に良く、しかもすこぶる美味いという、幻のような話である。是非一度味わってみたいものである。たぶん可能性として、縄文人などの山の民が、その恵みを食べていたのではないかと想像される。医食同源という思想も、こういった食物を源に持つからなのかもしれない。一部のレストランでは、その料理が食べられるらしい。
そして、そのハナビラタケの人工栽培に挑戦し、成功した人の話になる。しかし、とてもデリケートなキノコである為、スーパーで売られるほどの大量生産は難しく、乾燥粉末の健康食品として売られている。そして、その研究分析の過程においてさまざまな、効果がわかってきた。その最大の効果が、免疫力をアップさせる、免疫賦活作用である。ここまでは実験で確かめられている。そして著者の小澤医師が、臨床の現場をリポートととして書いている。
この夢のような話が総て正しいとは思わないが、ある種の真実を含んでいることは確かな気がする。こういった幻想を総て切り捨ててしまうのはもったい ない。幻想の位相を変えれば、またこれもありえる話である。幻想は果てがない。
無駄な思い
我々が見ている世界は、神経細胞によって入力された電気信号として、頭の中で創られた世界。その外側にあるのは、神経細胞を刺激するなにかでしかない。
我々がスニーカーを見るという行為も、実際のものからうけとった刺激を、電気信号として頭の中で処理をして、イメージ化してできたもの。実際のもの、そのものではない。そもそも実際のもの、そのものなどあるのであろうか。裏側の世界。
ヒトはそれぞれ勝手に、頭の中で処理した信号をイメージ化する。本来ヒトが見ている世界はすべて違っていて、それぞれ別の世界が無数に存在する。それを同じように見せるものが、共通の無意識または共同幻想なのであろう。それぞれ独自の内宇宙を生き、次元を超えて別の宇宙にも生きる。
スニーカーが神として存在する世界があっても驚けない。夢想は果てしがない。
当たり前のことではあるが、言葉は絶えず変化する。普段何気なく使っている言葉にある歴史。意表を衝かれ、ただ関心する。単純な言葉ほどその意味を、ほとんど考えないで使ってしまう。その言葉の持つほんらいの力を、殺してしまうような使い方を無意識にしている。日本語はカナと漢字が合体した複雑な言語である。そして各地方によって方言の違いがあり、話言葉と書き言葉があった。そのため更にややこしくなってしまっている。それだけこの国の統一が遅れて、各地方独自の幻想世界があったことが感じられる。民俗学者柳田国男は、アンチ・アカデミズムから生まれた異能の人。残念ながら私には、この理論が正しいのかはわからない。言葉には、まだ我々の知らない謎が隠されている気がする。
柳田国男は何故、闇の世界に下りていかなかったのか。幻想と興味は尽きない。
世界の水道水を分析した、興味深く実用的な本である。旅好きな人は、読んで損のない、必ず役に立つ情報である。世界中の大部分の国々は、汚れた水を飲んでいるということを、改めて考えさせられる。下水道の整備という地味な仕事が、都市の機能を、健康という観点で支えている。日本の援助した金は、地味な部分にはあまり使われずに、無駄を生んでいるらしい。古代文明の都市には、下水道の遺跡がちゃんと残っている。そう考えると世界の文明は、はたして進化しているといえるのか疑問である。
また逆に、日本の水道水は、世界からみれば羨ましがられるほど安全な水である。確かに、昔飲んだ水道水より、今の水道水は不味くなった気がする。しかし現在市販されている各種のミネラルウォーターが、本当に美味いのかは疑問である。たぶんレベル的には、水道水とたいして変わらないはずである。私が子供の頃飲んで美味いと感じた水の味の記憶より、市販の水は不味い。市販のミネラルウォーターが美味いというのは、大いなる幻想であると私は考える。日本の水が不味くなったのは、川や湖の水を我々が汚してきたからであり、美味い水道水を飲むためには川や湖の水質をきれいに保ち、塩素消毒の量を減らすしかない。それでも日本の水道水は、他の国々から比べればかなり贅沢な代物であろう。なにしろ、雑菌やウイルスに汚染されてはいないのだから。
「万物の根源は水である」という、古代ギリシャの哲学者ターレスの言葉がある。(この本の冒頭から引用)そして人のからだも、65%が水で構成されている。ということは、健康とは大部分が水でコントロールできるのかもしれない。最後にこの本の解説で、久保田昌治氏が言っている免疫の問題は非常に興味深い。
「民族魂の使命」 ルドルフ・シュタイナーを読んで」
けしていかがわしい本ではない。誠実な本である。精神科学と聞くと総てが、なんかとんでもないインチキな臭いを感じてしまうが、なかには示唆を受ける本もある。内容ははっきりいってわからない。神秘主義者でもなく、神秘体験を経験したわけでもない私には、語りえぬ世界である。でも興味は昔からあり、知りたいとは思う。直感で物事を感じ判断すると、私の中で今のところシュタイナーはありだ。鍵は北欧神話と薔薇十字になるだろう。私の中でうまくいけば、なにかが繋がる可能性があるそんな本です。
シュタイナーは、「なにかをドグマ的に受け入れるのは、神智学的ではない。ほんとうに神智学的なのは、精神科学から刺激を受け取り、それを人生のなかで吟味することだ」と言っている。それは総ての情報に対して当てはまる、深さがある言葉である。
現代は情報の洪水の中を泳がねばならない時代である。しかも情報操作されたごみだらけの海を泳ぐ。レーダーとなるものは、直感力。その無数の閃きの中に一片の真理が隠れている。溺れ死なないように今日も泳ぐ。みえないものをとらえる為に。
WBC世界フライ級タイトルマッチ
坂田健史VSロレンソ・パーラ
先日行われた試合で見事に、坂田選手がタイトル奪取に成功した。坂田選手の気合の入った、この試合に人生の全てを賭けている表情が全てだった。内容は救われない試合で、パーラはやる気がなく途中で試合放棄。この試合の裏側がどうなっているか知らないが、このままだとボクシングに不信感が生まれてしまう。それを唯一救ったのが、世界タイトル四度目の挑戦で後が無く、しかもパーラに二回惜しくも負けている坂田選手で、本気で全身全霊を賭けた生き様が観客に見事に伝わり感動が生まれた試合であった。それが無かったら暴動が起こってもおかしくない試合だった様な気がする。
なにか言葉にすると陳腐になってしまう。言語は絶対ではありえない。「はじめに言葉ありき」という一節が心に浮かびひっかかる。頭の中がもやもやと、何か出てきそうでひらめかない。そうすると筆はぱったり止まり、もう、しばらく前に進まない。書いていると言葉が湧き出してくる瞬間がある。その波に乗っかれば後は楽だ。私の場合書くという核心は、なにかが来るのを待つことだ。
坂田選手の何が私を感動させたのか。言葉ではないもの。思い。人のエネルギーっていうか波動のような。眼光。戦いが終わりむくわれた者の恍惚。人生。
「エネルギー不変の法則」。はじめにエネルギーありき。人のエネルギー(想念)は不変。輪廻転生。「E=mc2乗」(半村良が「妖星伝」で残した謎)。総てが混沌としてわからない。まあ人は神になれないのだから、気にすることは無いさ。殺されるわけじゃない。でも人は、始めから総てを知らされているんじゃないか。
とりあえずこれで、フライ級は面白くなった。亀田選手兄弟と坂田選手がどう絡んでいくのか。日本人同士の世界戦は名勝負が多い。これからフライ級は注目の階級になってきた。名勝負が見たい。
ウイルスの猛攻
今うちの会社にウイルスが続々進行中で、本当にやばい状況になっている。社員の90%以上が感染者で、ダウンしている者も多い。インフルエンザウイルスも年々進化し、新たな武器で攻撃を仕掛けてくる。人も、常に自分の免疫や抗体を意識して戦いを挑まないと、とんでもない負け戦、下手したら死ぬ事もありえる。病気というものは存在しない。ただ自分の抗体とウイルスが戦っているだけだ。勝てばいい、それだけ。もし油断して負けてしまったら、ウイルスへの復讐を誓い体の細胞を活性化させる。そしてひたすら「治れ、勝て、やっつけろ」と祈り続ける。そうすれば大概は負けないはずだ。
もうちょっと自分の体の中の戦いを意識したほうがいい。薬で援軍を呼ぶのもいいが、援軍に頼りすぎると自分の免疫が弱くなり、いざというとき役に立たない。人の体のシステムは、自己の力でなんとかなるようにできているはずだ。あくまでも自分の体の内部の戦闘状況を感じて、自ら指揮し対抗する。
元々人は無意識のうちにそうやって戦っていたはずが、病気という概念を植えつける事によって、本来自己治癒可能なものまで過剰に病気という形に押し込める。外部から治そうとして、内部の力を信じきれない。確かに今、人の内部の力が落ちている。それは食にも原因がある。たぶんかなりの影響があるはずだ。医食同源。食い物で人の免疫は高められるからだ。食い物が本来の薬なのであって、わけのわからない錠剤を呑む気は、私はしない。
昔から疫病(コレラやペスト等)の流行は、文明の転機に必ずある。そこで過剰な人間は淘汰され、新たな時代に進化する。そこにウイルスは深く関わっている。ある日突然進化したウイルスが猛威を振るい、今までの文明を破壊し新たな文明に誘う。それがウイルスにプログラムされた神の意志なのかはわからない。今、太陽からの放射線がオゾンホールを続々透りぬけ、ウイルスに影響を与え突然変異を及ぼし、今までとは違うウイルスが続々誕生している。そろそろ我々の文明も転換点にさしかかっているのかもしれない。でもそこには大規模な淘汰が待っている。それが宿命であるならば。
「コンピュータのきもち」 山形浩生 を読んで
なにげなく古本屋で見つけて、百円で買った。なぜなら作者の山形浩生は、私の好きなSF作家フィリップ・K・ディックの翻訳者だったからだ。私はコンピュータに関して、まるっきり無知である。あえて避けていたのは、はまるのが恐かったからだ。20代の頃もし出会っていたら、たぶんのめりこんでいただろう。今は時間が限られているので、はまりこんでいくわけにはいかない。20代は時間が無限に有った様な気がする。また60代ぐらいになれば時間もゆっくり流れるのであろうか。物事にはまって、それだけを突き詰める生き方は悪くないと思う。おたくなどと蔑まれてしまうが、往々にして歴史はそこから始まったりする。コンピュータの歴史もそいうものらしい。
コンピュータとは人の感覚を増幅する事が出来る、人間の進化の可能性としての道具(存在)なのかもしれない。その為には素直にものとしての存在を認識し、言語で考えるのではなく人が本来持っている感覚に身を任せ、そのもの自体の中に入り込み知覚する。それを身体の内部に取り込み咀嚼する事によって身体の一部となす。またその一方でコンピュータ(機械)は意志を持ち(既に持っているのかも)、人より上位レベルの存在になるのかもしれない。人が思考した世界は、多次元化された宇宙の中に必ず存在すると思うから。
この本を読んで感じるのは、作者のコンピュータへの愛情であり、それがあるからコンピュータに関心が薄い人が読んでもおもしろいと思った。コンピュータを身体の一部として感覚する事が出来れば、身体感覚の拡張として利用できるんだなと、ちょっと遅れて考えさせられた。いろいろ深いところで思考できる、感覚的には好きな本。
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