1995年の作品。はずれだった。映画としてうまくまとまっていない印象が残った。辰吉丈一郎というでっかい素材を、料理しきれなかったと思う。前半のインタビューと中盤のドラマ、そして後半の試合のシーンがちぐはぐな感じがした。辰吉vs薬師寺の試合を観た当時の感動が少し甦ってきた。でも、スローじゃなく、普通に観たい気が強くした。辰吉選手が言う、「ボクサーは試合が作品だ・・・もっといい作品を残したい云々」という言葉は凄く印象的である。まさにプロ。彼はどこへ向かうのだろう。夢想は尽きない。
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1995年の作品。はずれだった。映画としてうまくまとまっていない印象が残った。辰吉丈一郎というでっかい素材を、料理しきれなかったと思う。前半のインタビューと中盤のドラマ、そして後半の試合のシーンがちぐはぐな感じがした。辰吉vs薬師寺の試合を観た当時の感動が少し甦ってきた。でも、スローじゃなく、普通に観たい気が強くした。辰吉選手が言う、「ボクサーは試合が作品だ・・・もっといい作品を残したい云々」という言葉は凄く印象的である。まさにプロ。彼はどこへ向かうのだろう。夢想は尽きない。
かなりマニアックな背景を持つモデルだ。フリオ・セサール ・チャべスはメキシコ人で、1980~1990年代にかけて活躍したボクシング界のスーパースターだった人物(世界タイトル3階級制覇と88連勝を記録等)「メキシコの英雄」。とはいっても、日本ではほとんど一般になじみがない名前であろう。よほどのボクシングマニアでなければ、その試合を観たことがないと思う。
なんでこんなダンクが発売されたのか、ちょっと不思議で興味を惹かれた。なんか想像をかきたてられたとでもいおうか。ネット上ではこれが、1996年の世界スーパーライト級タイトルマッチ、王者チャべスvs挑戦者オスカー・デ・ラ・ホーヤとのタイトルマッチを表現していると書かれている。私は残念ながらその試合は観ていないのだが、デ・ラ・ホーヤはチャンピオンを激しい流血に追い込み、4RTKO勝ちを収め、3階級制覇とともにチャべスの時代に幕を下ろした。
一方のデ・ラ・ホーヤはメキシコ系アメリカ人で、世界タイトル6階級を制覇した、こちらもスーパースター。今年の12月6日に引退試合が行われる予定である。アメリカで最も人気があるボクサーの一人だそうだ。
でも実際発売されたモデルを見てみると、左足には「0」と「CHAVEZ」の刺繍が入っているものの、右足には「2」としか入っていない。何故だろう。一部のサイトでは、右足に「DE LA HOYA」の刺繍が入ると書かれていたので不思議に思った。なんかこのモデルを見た瞬間、違和感のようなものを感じたからである。
そして海外サイト上で「DE LA HOYA」と刺繍が入っている写真を発見した。そして、それには数字の刺繍は入っていないようだ。しかも、それは「DUNK HI PREMIUM」の表記ではなく、「DUNK HI SB」となっている。なんと外見はまったく同じで2種類の「ULTIMATE GLORY」が存在するようなのだ。それは何故なのか。
ここからは、たんなる推理でしかない。このモデルのキーワードは、「メキシコ」である。まず、これがメキシコの別注モデルという説がある。わざわざ、デラホーヤが消えてチャべスが残ったのをみても、それは正しいように感じられる。それは、タンに付いた「ULTIMATE GLORY」から推理可能だ。どうやらそれは、メキシコ発信のナイキイベントの名称だと思われる。そこで企画されたスペシャルモデルが、このダンクである。そして、メキシコで発売される(た?)のは、日本で発売されたのと同じ「PREMIUM」の方である。
では、何故2種類のモデルが作られたのかを推理してみる。ナイキ側からみれば、チャべスとデラホーヤの名前が両方入っている方が好ましかったと思われる。そのほうが分かりやすいし、デラホーヤは本家アメリカではビッグネームでもある。それが何らかの理由によって、デラホーヤの名前だけ削除された。それとも、2種類発売する予定だったのか。たんにプロモ用に作られたのか。いまのところ、「SB」(本当にSBなのかも疑問が残る)の方は、サンプルしか確認されていないという。
デラホーヤの文字を削除した理由は、メキシコ側にあるのではないだろうか。(名前の使用をデラホーヤが拒否した、とも考えられるが、サンプルを作っている以上許可は取得していたと想像される)メキシコ人は格闘技に熱狂する国民性を持つといわれる。それはボクシングやルチャ・リブレ(メキシカン・プロレス)の隆盛をみれば窺える。そのなかでも、チャべスは別格「メキシコの英雄」なのだ。そのチャべスを二度までも倒し、事実上引退へと導いた「デラホーヤ」という記号への拒否反応、拒絶だったのではなかろうか。
そのかわり、コンセプトの分かりにくさを解消する為に、最初はなかった(「SB」にはない)「0」「2」という数字の刺繍が採用された。チャべス(左足)が「0」で右足(本来はデラホーヤの刺繍が入る予定だった)が「2」である。これはもう単純にその勝敗、デラホーヤ2戦2勝を表しているような気がする。これは後付であり、苦し紛れにも感じられるが。
デラホーヤは、メキシコ人の血が流れているとはいえ、「アメリカ」を象徴するものとされた。このダンクは、左右の思惑が複雑に戦っている面白いスニカーといえるのではないだろうか。デラホ-ヤは今年で引退し、一方ではチャべスの息子、チャべスJrが快進撃を続けている。そんな背景もあわせると、さらに興味が増してくる。「モノ」とは、そんなヒトの幻想の上に成り立っているとはいえないか。夢想は尽きない。
まだ引退していないんだと、ちょっとびっくりした。彼は本物のプロボクサーであり、リングで表現するおっきな塊をもっていた。だから過去、あれだけの熱狂を生むことができたのだ。彼は既に38歳。しかも、網膜剥離を患い、日本でのライセンスはもう認められていない。日本で試合をすることができないのだ。過去あれだけの栄光を掴んだのに、まだ燃え残った何かがあるのであろうか。本気で「もう一度世界チャンピオンになる」というつもりなのか。お金の為だなどと陰口を叩かれているが、そんな理由で、失明するかもしれない恐怖と闘うことができるのか。そんなちゃちなことではありえない。彼の本性が「闘うヒト」であり、他の些事より「総てにおいて、リングに立つことが優先する」、それが他のボクサーと彼を分かつ、非凡なる部分だと思う。「死すときは斬られて死にたい」。そんな、侍の心意気のようでもある。夢想は尽きない。
先日行われた、ボクシングの四大世界タイトルマッチを観て、西岡利晃選手がチャンピオンになった試合はとてもよかった。素直に感動させられた。ボクシングというドラマが産み落とす、奇跡的な時間の流れ。それは観るものを同化させるというか、その試合に引きずり込み熱くさせる、不思議な魔力をもっていた。それこそが、ボクシングに限らず総ての格闘技に於ける、試合を観続けるものに対するご褒美である。そんな瞬間は極稀にしか訪れないのだが、下手な芸術など吹っ飛ばすほどのパワーに充ち、人を歓喜の瞬間に導く、真の芸術である。「芸術とは人を感動させるもの」であるならば。宗教と芸術が結びついているように、格闘技もどこか宗教的な部分を分かちがたく内包している。道を究めるという思想。
西岡選手の登場シーンを見て、「きれいな眼をしているなー」と、まず感じた。そして、その眼にすべてが表れているような気がした。澄んでいて、しかし底深い、どこか悲しみを背負っているかのような、(言語化するとちゃちな感じに聴こえてしまうが)その思いのようなものが眼と顔貌に表出しているように感じられた。「眼がきれいな奴は強い」、それは大概当てはまるような気がする。試合も美しかった。紆余曲折を経てようやく辿り着いた、西岡選手のほっとしたような複雑な表情が、なんとも印象に残った。試合後のインタビューで、感謝の言葉のみ口にするのを聞きながら、彼の苦しみと困難だったであろう人生を透かされたような気がした。それは、どこか宗教的で、修行僧の言葉のようにも聴こえた。夢想は尽きない。
内藤・坂田・亀田
とりあえず、内藤・坂田、両王者の防衛が成功した。そして亀田選手が最後に登場して内藤選手に挑戦をアピール、次にドラマを繋げるという内容であった。結果からみれば、次に対する興味を惹き起こしたことでは成功したといえる。その裏では様々な駆け引き、思惑が、どろどろと渦巻いているようではあるが。それらはとりあえずおいておく。では、肝心の登場人物(主人公)達はどうであったか。あくまでも観客の視点から言わせてもらうならば、魅力に乏しい、わくわくさせる力に欠けているように感じられた。勝ってなんぼ、勝つことに意味があるというのも、選手の側からの真実ではあるだろう。それを理解したうえで、観客の求める個々の幻想は様々である。今の両者は、挑戦者と戦うことで精一杯であり、観客の求める幻想と闘うレベルまで到達していない。その幻想は様々で、マニアアックな楽しみ方もあっていいだろう。しかし、私の求める幻想は、もっと凄い試合が観たいのである。幻想に真実など存在しない、観客それぞれの欲望があるだけなのだから。極稀に、それが名勝負という形で瞬間結実するときがある。それを観たさに、いくつものパンを齧りつつ、その瞬間を待っているのである。
私の幻想には、亀田選手が絡んでくることが不可欠である。残念ながら内藤・坂田両選手の現在の力では、その瞬間を実現することは難しい。しかし亀田選手が加わることによって化学反応を起こす可能性は高まるのだ。彼は、観客の幻想・世間の幻想と闘うことによって生き延びてきた。たとえそれが拙いものであったとしても。ボクシングは純粋で高貴で崇高なものであるという幻想。過去にはそれは通用したかもしれない。しかし、もうそんな時代ではなくなっている。ボクシングというジャンル自体の危機なのではないだろうか。消滅するとは言わないまでも、このままでは衰退する一方だと思う。蹴りとパンチ、そして寝技、パンチだけで勝負する意味とは。そこに美しさがなければ、飲み込まれるしかないだろう。ボクシングの伝統、はたしていつまで通用するのだろう。いい意味で観客の幻想をぶち壊すことによってしか、生きのびる道は無いように思われる。一時隆盛を誇ったk-1でさえ、もはや安泰ではないのだから。夢想は尽きない。
ボクシングフライ級のこれから
とりあえず役者は出揃った。あとは熱いうちに鉄を打って欲しい。亀田、内藤、坂田、三つ巴の闘いに突入すべきだ。今が旬であろう。プロとして技術を見せるのは当然のことで、そのさらにプラスアルファがあるかないかで、価値はきまると私は思う。今回の内藤選手の試合はもの足りない気がした。結果を一番求められた試合であったはずだし、美味しいのはこれからであるのは承知している。しかし器というか、魅せるという部分で、私は惹きこまれなかった。いいかえれば内藤選手は、主役(スター)の役割ではないのである。そこで表現されているものが、勝つとか負けるとかいうレベルを超えて、両雄の魂が何かに迫ったときにたち顕われてくる世界に感動するのである。勝敗や技術の優劣など所詮この世、現世的なるもの。しかしあの世、日常を超えた精神の聖なる世界が垣間見える瞬間を待ち望みつつ、私にとって闘いを観ることは楽しみである。幻想は果てしがない。
デラホーヤ団体旗揚げ?
K1・プライド時代が終わり、格闘技界はそろそろ新たな時代へ向かう。オスカー・デラホーヤは、プロボクシング世界6階級制覇を成し遂げた伝説の男。どんな団体になるのやら、興味を惹かれる。日本でも先日、戦極が旗揚げした。そして近々、DREAMが旗揚げ戦を行う。どこが生き残るか、それもまた戦いである。一時の熱狂的なブームが過ぎ去り、これからは内容を厳しく問われることになるだろう。さてどの団体が、観客を熱くさせてくれるのだろうか。とりあえず、DREAMのカードはちょっと面白そうである。闘いはヒトの本能。狂った部分か?夢想は尽きない。
日本代表決定トーナメント
この大会は、前田宏行選手の気魄と存在感が総てであった。途中で負傷棄権してしまったのはとても残念ではあるが、観る者を惹きつける何かがあった。文句なく、お客さんとの勝負に勝ったのは彼であろう。ボクサーの凄みを存分にアピールした彼の実力は、讃えられていいと思う。K1のリングでボクサーは不利であるにも関わらず、あの闘志は凄まじいものであった。残念ながらあとは、これといった印象が残らない。もっと、たたずまいのある選手をみてみたい。夢想は尽きない。
http://www.fnlweb.com/result/2008/02/k1max.php
朝青龍と亀田の復活
朝青龍の復活により、大相撲は活気を呈していると聞く。ジャンルに活力を生み出すにはヒールの存在が不可欠なのではないだろうか。特に格闘技の世界では。本質的に闘いとは、きれいとか汚いというレベルのものではない。もっと個人的なものであった。それを、勝敗というレベルにずらして、スポーツという枠組みに嵌めこんだのが現代。相撲は、もともとスポーツではないはずだ。伝統芸能に近いものであろう。神事であり、儀式である。そこで純粋に強さを競ったのではあろうが、観客に見せるものではなかった。プロスポーツとは、そこに観客にみせるという新たな要素が加わって成立する。古来、どの国の神話伝説を眺めても、善と悪が表れ、そこから物語は進展していく。観客は、そこに何らかの物語を観るのである。勝敗は一要素であって総てではない。朝青龍と亀田は、物語をもっている。だから面白いのだ。その物語をどう読むかは、それぞれ個人的な事柄であり自由であろう。日本のボクシングの人気が上がらないのは、物語を発展させる能力の欠如が原因なのではないだろうか。夢想は尽きない。
亀田選手について思うこと
彼は、確かにやりすぎてしまったのかもしれない。その態度や暴言が、みるものを不快にさせたことは理解できる。しかし、利用されるだけ利用されて、やっかい者になったから抹殺されるようにみえる。彼らは、低迷していたボクシング界に光を与えた。ここまでボクシングに注目を集めたのは、彼らの功績である。はたしてスポーツとは、そんなに純粋で綺麗な汚れない世界なのだろうか。みんなそんなことは、嘘でありえないということをどっかで知っている。それなのに、新たな生贄を引き摺り下ろすように、よってたかって正義の名の下にそれを喰らう。プロスポーツの世界は、競争相手を蹴落としてのし上がっていかなければならない、過酷な弱肉強食の世界であり、この世の中となんら変わるところがない。それをあたかも聖なる特別な世界の存在であるかのように見立て、その枠の中に無理やりはめ込もうとする。彼はアマチュアではない。プロの選手である。プロだから反則を犯していい訳ではないが、お客さんを集めてなんぼの世界に生きている。ここで彼らを抹殺してしまうのは、プロの興業としても、ボクシング界にとってももったいない。ボクシング界で悪役としてその個性を生かせばいい。世界チャンピオンは、清廉潔白じゃなきゃなれないわけではない。その実力があればいい。亀田大毅選手は実力がなかった。まだ弱かったそれだけだ。しかしまだ18歳である。まだこれからの続編を見てみたいと思うのは、私だけではないはずだ。内藤選手は鬱憤や不満もあろうが、これ以上権力に乗っからないほうが美しいのではないか。いじめられた側からいじめる側に転化して欲しくはない。ヒトは立場が逆転して権力を持つと、いままでいじめられたり差別されていたものが、逆にさらに酷いいじめや差別を行ってしまう構造がある。かぶき者は世界を活性化させてきた。夢想は尽きない。
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